2016年11月07日

『武州通信』第236号

 落合って、意外にも昔は“文化の街”だったんですね。当日は晴天とはいかなかったものの雨も降らず探索日和。我ら『落合探索隊』の活動はまだまだ続きます。 

《『落合』探索part 2》の巻

 そろそろ昼食、…のお話からでしたね。武州野外大学ではいつも紺野さんが予約してくれたレストランが楽しみの一つです。これまで参加したことのある方は「今日はどんなレストランかな?」と興味津々。ところが紺野さん「いや今回はただの食堂ですよ」と何とも素っ気無い。一同、途端に疲れがドッと…。         
 さて、着いたところは、確かにただのラーメン屋の『松葉』。ところが、どうやらこの『松葉』はトキワ荘に住んでいた手塚治虫、藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎などの漫画家が食事をし、彼らの作品にもしばしば登場する有名なラーメン屋さんだったようです。注文の品が出来上がるまで漫画の話で盛り上がり、ラーメンの味も昔懐かしい昭和の(支那蕎麦の?)味がホンワリと…。ニクイねぇ、紺野さん。

 その後、「トキワ荘案内施設」で一休みし、歩くこと数十分、途中で眞嶋さんの末のお嬢さん(可愛いお子さん同伴)と待ち合わせ、いよいよ『哲学堂公園』に到着。哲学堂公園は明治37年に、東洋大学(当時は哲学館大学)の創立者である井上円了学長が創設したのだそうです。井上円了?…と聞いてすぐに頭に浮かぶのは妖怪やお化けの研究者ですが、こんな壮大な哲学の公園を作った人だったんですね。
 ところで明治37年(1904年)といえば、日露戦争の年。それから大正初期にかけて『四聖堂』『哲理門』『六賢台』『三学亭』『宇宙館』『絶対城』『無尽蔵』『髑髏庵・鬼神窟』etcと、続々と増設されたようです。眞嶋さんは、「当時は最高のテーマパークだったんでしょうね!」と。本当にそうですね。あの日は普段は入れない『六賢台』などにも入館でき(誰の行いが良かったのか)とても幸運でした。あまりにも広すぎてすべてを見ることはできませんでしたが、我々「探索隊」もそろそろ哲学堂公園にお別れの時刻になったようです。

 それから長い長い道のりを経て、いよいよ最後の目的地、『林芙美子記念館』へ。林芙美子の作品は“十代の頃に何冊か読んだことがあるなぁ”と何だか懐かしくあの頃が思い出されます。代表作は『放浪記』『うず潮』。でも、なぜか心に浮かぶのは『風琴と魚の町』に描かれた尾道の困窮した生活や物寂しい海辺の風景から受けた“心象風景”でした。そして「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」という芙美子の言葉も。でも、僕のこの“侘しい心象風景”と、いま眼にしている“大きな邸宅”とが、どこかで出会い損ねているような…。

 こんなちょっともどかしい気分を残しながらも、武州野外大学終了の合図を告げるかのように、外もだいぶ薄暗くなってきたようです。いつもながら紺野さんに心より感謝です。

 それにしても今回の『落合探索』はかなりハードな旅でしたね。何しろ鵣飼さん御指摘の通り“新宿区、豊島区、中野区”を駆け巡ったのですから。日本語ペラペラで「近衛文麿?あぁ日本の元首相ですよね」のロバートさんにとってはどんな旅だったんでしょうか? 楽しんでもらえたら良かったのですが…。武州大学の田口君、田中さん、知人の石黒さん、佐藤さん、お疲れ様でした。またいつもの『武州大学』楽しみましょう。「林芙美子は結婚していたんですね」と言う藤田さんに、「あれ? 結婚していたんだっけ?」と曖昧模糊の僕でしたが、展示を見て結婚どころか子どももいたとは、と再認識も…。疲れたけれどいろいろな発見のあったとても楽しい第四回目の『武州野外大学』でした。

― もともとあまり遠出をしない僕にとっては、たった一日でゆうに2〜3ヶ月分の運動量をこなした気分。― そして、家で飲むビールのなんと美味しかったことか…。(お・わ・り)                 

(斉藤 悦雄)

【インフォーメーション】
11月12日『武州大学』  7:00pm〜
     テーマ :『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を考える。part 4    
    レポート:斉藤悦雄
12月10日『オアシス武州』7:00pm〜
    テーマ :忘年会
12月17日『武州大学』  7:00pm〜
    テーマ :『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を考える。part 5    
    レポート:斉藤悦雄

 
posted by 武州ゼミナール at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月01日

『武州通信』第235号

 ようやく秋らしい季節になりました。と言いつつ、もう11月です。いつもならそろそろ秋も終盤のはず。木々も急いで彩を深めているような…。さて今号はこのところ毎年の恒例になっている『武州野外大学』のお話です。

《『落合』探索 part 1》の巻  

 10月29日(土)、山手線『目白駅』改札口。僕が到着した朝9時40分頃には、早々と鵣飼さん(卒業生の泰輔君、綾子ちゃんのお母さん)、眞嶋さん御夫妻(卒業生の麻衣ちゃんの御両親)、藤田さん(卒業生の園子ちゃん、順子ちゃんのお父さん)と順子ちゃんのご主人のスウェーデンから来日したロバートさん、のお姿が。この日は第四回目の『武州野外大学』の日。そこに知人の石黒さんと佐藤さんが見える。ややして引率者の紺野さん、武州大学の田中さん、田口君が登場し、僕を含め総勢11名の『落合探索隊』の結成です。

 落合?と言っても、僕はこれまで目白駅で降りたこともなく、また目白と聞いて田中角栄元首相の“目白御殿”しか頭に浮かばないのですから(そして目白御殿の跡地は方角が逆で今回の探索の対象ではないのですからますます)イメージが湧きません。引率の紺野さんに一切をお任せのままに…。

 さて、最初は近衛文麿元首相の邸宅の跡地。とは言え、今では面影を残すのは「近衛の欅」のみ。紺野さんの解説を聞き、近衛邸の広いこと広いこと、びっくりです。今でも「近衛町パークマンション」など(現在の住居表記は下落合ですが)近衛町の名前を冠した建物がいくつもあります。独り寂しく立つ欅の木は時の流れをどう思っているのかな?
 おそらく近衛文麿ほど、太平洋戦争への道を考える際に鍵になる人物はいないのではないかと思われます。それは以前『武州大学』で『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著)を考察したときに時々僕を襲った感慨です。現代の僕達は近衛首相のボタンの掛け違いを容易く批判することができます。しかし、僕があの本を読みながら思ったことは、その時々の場面で彼はこうなることを望んでいたわけでもなく、最善の道を選ぼうとしてなした結果だったのではなかったか?と。そこから見えてくること、それは、歴史を動かす動因は複雑すぎて、渦中にいる人々には完全には読み取れないものだということ、そして、如何なる人間の存在も、抗えぬ流れの中ではちっぽけなものに過ぎないということ、などでした。そんなことを頭に描いて、我々も抗えぬ歴史の真っ只中にあることに思いを馳せつつ、「日立目白クラブ(元学習院大学の寄宿舎)」や「おとめ山公園」を通り過ぎ、次の目的地、「中村彝(つね)アトリエ記念館」「佐伯祐三アトリエ記念館」へ。

 いよいよ美術の街に到着です。中村彝(つね)?それに佐伯祐三? 昔どこかで聞いたことがあるような気はしますが、何とも覚束ない。そんな僕ですから美術の批評はよしましょう。何はともあれ、2人とも大正時代を代表する画家だったようですね。経歴を見るとさまざまな苦労を重ね、それでもたくさんの作品を残しながら、中村彝は結核で37歳で、佐伯祐三は精神を病んで30歳で、共に若くして亡くなっています。
 これらの記念館は無料なのですが、それでも係員の方々は、とても親切に丁寧に説明してくれます。そんなこともあってか、僕達もゆったり鑑賞することができました。

 ところで、この一帯は「元目白文化村」と言って、昔は作家や画家など文化人がたくさん活躍していたようです。こんなところが東京にあったとは! 目から鱗が4〜5枚は落ちた気がします。なるほど、紺野さん推薦の場所、それが『落合』なんですね。

― そして、いつの間にやら、いよいよ楽しみなお昼の時間。さて、どんなところで?一体何を? これについては次号に(つ・づ・く)。  

(斉藤 悦雄)
posted by 武州ゼミナール at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。