2015年07月27日

『武州通信』第224号

 野川の川辺に小さな黒い影が走る。眼を凝らすと、2羽のカワセミが川面すれすれに交互に飛び交っている。雄は翡(ヒ)、雌は翠(スイ)、合わせて翡翠(カワセミ)と読むのだそうです。― 青い宝石、カワセミのヒスイの色が一条の線を描く、水にゆらゆら煌めく光の中に…。

《鬼の棲む街》の巻 

 終戦2年後に生まれた僕は、もちろん終戦直後の状況を知る由もない。物心ついたときには、そろそろ日本の経済も復興し始めた頃であった。とはいえ、町のあちこちに敗戦の残り香が漂っていたものである。

 ところで、最近の『武州大学』のテーマはジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」、石本朋子さんのレポートを聴きながら、次々と立ち昇る敗戦の残り香に想いが膨らんでくる。給食のコッペパンと脱脂粉乳。お祭りになると金銭を乞う傷痍軍人が現われる。思い起こせば、乞食もたくさんいたなぁ、と。そして、子ども達は物を貰いに歩く彼らをからかいながらも結構 親しみを感じていたように思う。当時は自動車もほとんどなく、子ども達は道端で缶けりをしたり、鬼ごっこをしたり、毬投げ(今のキャッチボールね)をしたり、石筆で道に絵を描いたり、と道路がそのまま遊び場になっていた。また、町内の子ども達はまとまっていて、僕の郷里の松本では、正月には「三九郎(さんくろう)」、盆には男の子の神輿「青山様」、女の子の提灯行列「ぼんぼん」、と子ども中心の行事もたくさんあった。そしてそこには年齢による序列があり、年長の子は年少の子の面倒を見、年少の子は年長の子の言うことを聞かなければならなかった。こんな生活が当時の一般的な子ども達の姿であった。

 ところが、わが家の裏側に塀で囲まれた 富士電機という会社の社宅があり、そこの子達は、同じ小学校に通っているのに、転勤族ということもあってか僕達に混じることなく、全く異なった生活をしていたのである。彼らは勉強もそこそこできたし、何よりも先生の覚えは格別にめでたいものがあった。そして、学校の音楽会などでは、僕達一般の児童とは別に、スーツを着、蝶ネクタイをし、エナメルの靴を履き、バイオリンを弾いたりするのだった。僕達は本物のバイオリンを見るのは初めてで、そこに特別な存在を見せつけられたような気後れを感じたものである。まるで、宮沢賢治の『風の又三郎』の高田三郎(又三郎)を前にした子ども達のように…。

 ところで、あるときその中の一人に誘われて彼の家に遊びに行くことになった。おそらく日曜日であったにちがいない。家はこぢんまりしているが、当時としては珍しい一面のガラス戸から中が透けて見える。そこには、彼のお父さんがソファーに座り、煙草を燻らせ、本か雑誌のようなものを読んでいる姿が見えた。テーブルの上には何か黒っぽい液体の入った耳のある洒落たカップが置いてあった。ただそれだけの光景なのだが、何故か自分の想像もつかない異界を覗いたような気がしたものである。製菓業を営む僕の父はほとんど休日もなく毎日粉にまみれて片時も休むことなく働いている。まして本など読んでいる姿は見たこともない。それが僕の知っている父親という存在の確かな姿であった。その日 彼とどんな遊びをしたのか全く覚えていないのだが、そのガラス戸の向こうの世界だけは克明に覚えている。そこは僕のような普通の子が決して近づいてはならない異界であり、異人の棲むところであった。そうか、人は遥か昔から共同体の外のもの、この世ならざるものを「鬼」と見做してきたではないか。あの光景は、平安時代に大江山の酒呑童子(鬼)を初めて見た人びともかくやありなむ、と思わせるほどの戸惑いを僕に焼き付けたのである。― そこは、間違いなく、“鬼の棲む街” にちがいなかった。

 あれから、あれよあれよと時が経ち、いつしか武州のソファーに深々と腰を埋め、パイプを燻らせ、悪魔の液体(コーヒー)を飲みながら本などに目を通している自分がいる。そうだ、僕もすっかり “鬼の棲む街” の住人になってしまったのだ。

『武州大学』で終戦直後の日本人の姿を学んでいると、当時の生活が生々しく思い出され、その昔 僕が呼吸していた “人の住む街” が妙に懐かしくなるのである。忘れた過去が何故か色鮮やかに息づいてくるのである。そして、あの奇怪な “鬼の棲む街” の光景も…。 

(斉藤 悦雄)

【インフォーメーション】
 9月5日『武州大学』 7:00pm 〜
  テーマ :ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』を読む part.3
  レポート:石本朋子さん
 9月12日『オアシス武州』 7:00pm 〜
  テーマ :『ドイツ遊学記』
  お話  :梶原真秀さん
    ※関心のある方は是非参加してください。
posted by 武州ゼミナール at 21:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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