2014年11月29日

『武州通信』第220号

 足下で何を思ってかカサカサ泣く枯れ葉。風に吹き寄せられ道の端でひそひそ囁きあう枯れ葉。雨降れば、顔を洗われ恥ずかしそうに頬を染める枯れ葉。― 赤、黄、橙 を静かに踏みしだく。
カサカサカサ…。これが東京の“冬の到来”を告げる音色です。

《ホンマにそうですね!》の巻

 前号の《スーパーグローバル大学》について、大阪の塾仲間の小寺顕一さんからコメントが届いた。僕の言いたかったことを的確に指摘されておられたので、(なんて偉そうに言えば小寺さんから叱られそうですが)思わず “そうなんだよなぁ” と合点してしまう。

(ノーベル賞受賞者の)中村さんのお話も、教育談義は、誰もが、さも尤もらしく現実から離れてでも語るもの、同じ記事を見ながらも、冷めて見ていました。…
個性尊重は願望であって、中村さん自身、賞への原動力を尋ねられた時に、「アンガー」・「怒り」と答えておられたように思います。すると、どうも、小さい時から個性の尊重がなされていたとすれば、賞へのエネルギーは昇華され、反って賞獲得には結びつかなかったのではと? くわしいことは知りませんから、断定はできませんが、反発する環境と理解を示す環境とがない交ぜの中で、アンガーをバネにされたのでは、と理解していました。


 そうですよね。人がどのような思いを抱き、どのような行動を起こすかは測りがたいものがあります。人は負の環境を正のエネルギーに変えることも可能ですし、その逆もありえますからね。まぁ、だからといって、環境なんかどうでもいいなんて言うつもりはありませんけれど…。それにしても教育行政が教育に期待するものがどこかズレていて、多くの国民の幸せから遠く離れているように見えるのは、僕の眼鏡が曇っているからなのかな? 確かにグローバル世界で日本が生き残るために教育がある、と考える人もいるのだから…。
 さて小寺さんのコメントは続きます。

ともあれ、60年代からの、人を「人材」として見、「活用」する。この考えはなお変わってはいないようです。女性が輝く社会も、労働力不足というより、相対的低賃金労働者を作り出すためのものに見えてしようがありません。

 ホンマにそうですね。とはいえ人は経済から離れては生活できません。生きていかねばなりません。言説としては美しく語ってみせても、現実は? 誰でも感じてしまうこの齟齬。 経済が活性化してくれさえすれば、夢よもう一度!  いやはやまったく。ところで人材が何とかしてくれるのかな? そして、この経済格差も有能な人材が解消してくれるのかな?

 それはともかく、1960年代から人はどうやら「人材」になったようです。確かに教育が経済から無縁なところにあるのでないことは承知の上で、なおかつ疑問は募ります。人は経済社会を担うだけの、ただの「材」なのかな?ってね。その昔、この「人材」って言葉に何故か向かっ腹が立ったのを思い出します。俺たちは材なんかじゃねぇ、生徒だって材なんかじゃねぇ、みんな丸ごと人間だい、ってね。これが幼稚な感傷に過ぎないことは分かっていても、です。

 よく考えてみればいい。自分の子どもを社会で有能な人材に育てようと親は思うのかな? 自分の生徒をそんな風な目で見る先生がどれだけいるのかな? きっといるにはいるんだろうけれど、そんな目で育てられた子どもはどんな大人になるんだろう。僕の関わらない世界があることは想像できるけれど、僕の目の前に姿を見せる世界では、その子にあったその子の幸せだけを願っているのが普通の親であり普通の先生のように見えます。

 こうして身の回りを眺めてみるだけでも、教育行政が求める「人材」という発想自体がどこか頓珍漢な気がしてきて、何だか鼻白む思いがしてきます。“子どもと生活する” とは、おそらく、目の前の子どもの “幸せ” をただただ願い、その子と丸ごと関わり続けることに相違ありません。  

(斉藤 悦雄)

posted by 武州ゼミナール at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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